ページ

2010年9月30日木曜日

9/30

幸福を感じられる人


本当に幸福を感じ得る人というのはどんな人か。

どうだい?あなた方のなかで、幸福を感じてるほうが多いか、不幸を感じてるほうが多いか。

自分自身は自分自身がよく知っているから、知っている自分を対象物として、

これから私の言うことを聞いてごらん。

こういう人が本当の幸福を感じて生きている人なんだ。

その心の中に絶えず高尚な積極的観念が熱烈に燃え上がって生きている人。

どう?そういう人は、よしんば仮に、はたから見て大きな不幸だなあと思うようなものがこようが、

すべてをその高尚で積極的な心的態度で美化、善化して、幸福化してしまっているのであります。

本人が幸福化している以上は、不幸はありゃしない。

幸福というものは主観的断定だもの。

***************

高尚(こうしょう)=


[名・形動]学問・技芸・言行などの程度が高く上品なこと。けだかくてりっぱなこと。また、そのさま。「―な趣味」「話題が―すぎる」⇔低俗




俺は幸福だとはっきり言える。

2010年9月14日火曜日

9/14

苦しみも微笑みに


悲しいことやつらいことがあったとき、すぐ悲しんで、つらがってちゃいけないんだよ。そういうことがあったとき、すぐに心に思わしめねばならないことがあるんだ。

それは何だというと、すべての消極的な出来事は、我々の心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくるものだということなんだ。

だから、どんな場合にも心を明朗に、一切の苦しみをも微笑みに変えていくようにしてごらん。

そうすると、悲しいこと、つらいことのほうから逃げていくから。

人の運命というものは、油断すると、常に本能と手を組んで歩こうとしているものなんだ。

そして、消極的な出来事は絶えず、不用意な人々の周囲を徘徊してるんだよ。

だから、運命の力をほどよく制御したかったならば、自己本能の分別ない行動を正しく制御しなきゃならない。

苦しいとか悩ましいとかいうのは、みんな本能の踊り子の自分の心がなっていたための結果だよ。

*************

自分の本能を制御しなきゃいけない。

本能に振り回されてはいけない。

2010年9月13日月曜日

9/13

六つの力


「心身統一法」というひとつのドクトリン(教義)は、健康と運命とを完全にする生命要素というものをつくることを、そのプリンシプル(根幹)にしているのであります。

生命要素とは何かというと、ひらったい言葉で申し上げると、健康や運命を両立的に完成するのに必要な「生命の力」であります。私はこの力を便宜上、六種類に分けて説明しています。

心身統一法によってその内容量を増やす力、第一が「体力」であります。

第二が「胆力」、第三が「判断力」、第四番目が「断行力」、第五番目が「精力」、第六番目が「能力」。

たとえ懐に一文もなくとも、これだけの六つの力が自分の生命の中に内容量豊かにあれば、人生はまるで天馬が空を行くように順調なものであります。

それこそ矢でも鉄砲でももってこいというような気持ちで生きられる。 

健康はもとより運命までも順風に帆をあげたような毎日が味わえれば、心に不平も起こらないし、煩悶(はんもん)もなく、大した度外れな欲望も出ず、ひにち毎日が何とも言えない明るい恵まれたものに感じられて生きられるのです。

***********************

胆力(たんりょく)=事にあたって、恐れたり、尻ごみしたりしない精神力。ものに動じない気力。きもったま。「―を練る」


***********


体力 胆力 判断力 断行力 精力 能力があれば天馬が空を行くように生きられる。


なんか気持ちよさそう。

2010年9月12日日曜日

9/12

精神の態度で

 ここで、「人生と積極精神」という、極めて大切なお話をしようと思うのであります。

健康も長寿も運命も成功も、いえいえ、極論をもうしますと、人生の一切合財がすべてこの積極精神というもので決定されるためなのであります。

 たいていの人がこの心理に目覚めておりませんから、健康や長生きというような問題は、肉体に施す手段や方法が、何より重大であるように思い、また運命や成功というようなことも、まず学問とか、あるいは経験とかを充分に豊富にしなければいけないように思い込んでいる。

それはもちろん、そうした事柄も不必要なことじゃありません。

むしろ必要なことに相違ありませんけれども、厳格に申すと、それは第二儀的なものなもです。

 第一に必要とする事柄は、精神の態度であります。

 心が積極か、あるいは消極かで、人生に対する考え方がぜんぜん両極端に相違してきてしまう。

心が積極的であれば、人生はどんな場合にも、明朗、溌剌颯爽(はつらつさっそう)、勢いの満ちたものになりますけれども、反対に消極的だと、人生のすべてがずっと勢いをなくしてしまいます。

人生を考える自分の心が消極的だと、すべてが哀れ惨憺(さんたん)、光のない、惨めなものに終わりゃしませんか?

*********************

健康も長寿も運命も成功もすべて精神の態度で決まる。

間違いねーよ。

俺はまた積極精神を手に入れたよ。

2010年9月10日金曜日

9/10

理性はあてにできない


 理性という心は、人間だけに与えられたもので、ものの善意、是非、邪正、曲直というものを分別してくれる心です。

世の多くの人々は、理性だけを標準として、ああでもねえ、こうでもねえと考えて、心のもつれの一切を解決しようとする。

また、そういう力を理性が持っているために、人生の一切はこの理性に任せて生きることが、また生きてこそ一番安全だというふうに思い違いをしているんです。

理性というのは、一日一分といえども、同じ状態でいないんです。つまり、昨日の理性と今日の理性は違うんですよ。よくあるだろ?おととい考えたことを、今日考えてみたら、ああ、あれよりこの方がいいな、というふうに考え直すことありゃしない?

それは結局、理性というものは向上し、発達し、変化するからなんです。

だから、今日、自己の理性で判断して、是なりと思ったことも、明日になって、さらに理性の発達に伴って、あるいはそれが全然反対に非となる場合だって往々にしてあるんですぜ。

だから、変転変化極まりなき発達性をもっている理性のみを標準にして生きようとする計画は、狂っているコンパスをあてにして航海をするよりまだ危険なんですよ。

*****************

俺はいつも自分の理性に従って、これはいい、これはだめだと、決め付けて考えてきた。

自分がいつも正しいと考えてきた。

でも、今考えるとあのころと随分考え方が変わってる。

ということは、自分は正しくなかったということになる。

理性はあてにできない。

2010年9月9日木曜日

9/9

平然自若

 なんでもないときは矢でも鉄砲でももってこいという気になるけれども、健康上に故障があったり、運命上に少しでもままならないことがあると、そういう場合こそ、より一層心の態度が積極的であらなきゃならないのに、すぐ青菜に塩みたいになってしまう。

こういうのを積極的態度というんじゃないんですよ。

どんな場合があっても積極的というのは、心の尊さと強さと正しさと清らかさが失われない状態をいうんです。

つまり、どんな大事に直面しても、どんな危険な場合に直面しても、心がいささかそれによって慌てたり、あるいは恐れたり、あがったりしない、いわゆる平然自若として、ふだんの気持ちと同じようにこれに対処することができる状態。

そういう気持ちになってこそ、初めて人間として立派な仕事をやりとおせ、自分の人生を立派に生きることができるんです。

昔の歌に「晴れてよし 曇りてもよし 富士の山」というのがあるね。

富士山というのは、天気だろうが、曇って雲がかかろうと、そのもとの姿は変わらない。

あの状態、あれがいわゆる絶対積極の気持ちなんです。

**********************

自若=重大事に当たっても、落ち着いていて、心や態度に少しの乱れもないさま。

言笑自若げんしょうじじゃく 意味

どのようなことがあっても、平然としているたとえ。▽「言笑」はしゃべったり笑ったりすること。談笑。「自若」は心が落ち着いていて動じないさま。

************************

俺の心はすぐに青菜に塩になっちゃうよ。

修行を積んで、いかなるときも平然自若でいられるようにしよう。

2010年9月8日水曜日

9/8

寝がけは尊い人間に


 昼間、起きているときには、われわれの暗示感受習性というものは、われわれが、ああ、いいな、これは共鳴するわ、と感じたこと以外のものは、潜在意識の中に入らない。

やってごらん。

ところが、夜の世界だけは、特に寝がけに、寝床の中に入ってからは、この精神のアンテナというものは、無条件に、よいことでも悪いことでも、もうすべてが、差別なく入り込んでしまう。

だから、いいことを考えるんだ。

嘘でもいいから、俺は優れた人間だ、俺は思いやりのある人間だ、俺ははらの立たない人間だ、俺は憎めない人間だ、俺は焼きもちを焼かない人間だ。

こう思えばいい。

それを寝がけによけい腹を立ててるやつがいる。

昼間、興奮している間は思い出さなくて、寝がけになって思い出しやがって、「あん畜生、あんなことしやがった。ざまぁみやがれ」、もういっぺん起き上がって腹を立ててる奴がいる。

夜の寝床の中だけは、神の懐の中へはいったような、穏やかな気持ちになってごらん。

今夜から、寝がけだけは絶対に尊い人間になるんだ。

毎晩尊い人間になったからといって、税務署から調べにきたなんてことはない。

どんなに体にいい結果が来るか、やってみたものだけが知る味だ。

やってごらんなさい。

今夜から。

***********************

尊い=

     崇高で近寄りがたい。神聖である。また、高貴である。たっとい。「―・い神仏」
    「神(かむ)さびて高く―・き駿河なる富士の高嶺を」〈・三一七〉
     きわめて価値が高い。非常に貴重である。たっとい。「―・い命」「―・い犠牲を払う」
     高徳である。ありがたい。 「横川になにがし僧都とかいひて、いと―・き人住みけり」〈・手習〉
***************

神の懐の中にはいったような、穏やかな気持ちかあ~

いい表現だ、やってみよう。

2010年9月7日火曜日

9/7

言葉ほど暗示力をもつものはない


真剣に考えよう! 実際人間が日々便利に使っている言葉ほど、実際意識の態度を決定するうえに、直接に強烈な暗示力を持つものはない。

このことを完全に理解し、かつこれを応用して生きる人は、もはや立派に人生哲学の第一原則を会得した人だといえる。

何故か!それは人生というものは、言葉で哲学化されているからである。

即ち言葉は人生を左右する力があるからである。

この自覚こそ、人生を勝利に導く最良の武器である。

われらはこの尊い人生の武器を巧みに運用し応用して、自己の運命や健康を守る戦いに颯爽として、輝かしい希望に満ちた旗を翻しつつ、勇敢に人生の難路を押し進んで行かねばならない。

そしてこの目的を実現するには、常に言葉に慎重な注意を払い、いかなるときにも、積極的以外の言葉を使わぬよう心がけることである。

それが人生哲学の第一原則である暗示の法則を立派に応用したことになり、期せずして健康も運命も完全になる。

*******************

これは誰もが言うことだね。

言葉は人生を左右する力がある。

常に使う言葉に注意を払い、いかなるときも、積極的な言葉を使う。

「疲れた」は言わない。

2010年9月6日月曜日

9/6

新しいバースデイ


「縁あって人間世界に生まれてきた以上は、できるだけ強く長く、そして広く深く、健康も運命も完全に生きなければ二度と出てこれない世界だ」、とこう気づいたら明日からおいでなさい。

命が大事か大事でないか親類会議を開く必要もないことです。

ご自身で考えなさって、本当に命が大事だと思う人は、人生に対する本当に階級の高い理念が心のなかに閃きだした人なのであります。

そして、人生という現実の世界に生きる自分を、本当のリアリストとして生かさなければだめです。

夢うつつのような、おとぎ話のような、自己欺瞞で人生を過ごしてしまったのでは、二度と繰り返すことのできないこの人生、もったいないです。

あっそうか、と気がついた時が新しいバースデイであります。

自己にあたらしい百八十度のコンバージョン(転換)を与えるバースデイをつくるかつくらないかは、あなた方の自覚に待つのみであります。

***********

自己欺瞞 じこぎまん=自分で自分の心をあざむくこと。自分の良心や本心に反しているのを知りながら、それを自分に対して無理に正当化すること。自欺(じき)

**************

まさに俺の今までの人生、夢うつつのような、おとぎ話のような、自己欺瞞で人生を過ごしてきた。

いつも、今はこんなことしてるけど、先にはばら色の未来が待っていると思ってた。

でも、今までの人生が本物で、それが今の俺を作ってる。

 自分を、本当のリアリストとして生かすとはどういうことだろう?

心と体を離して考えるということか? なんにしろ、もう、もったいなく人生の時間を使うのはやめた。

 今日もバースデイだ。


2010年9月5日日曜日

9/5

天は自ら助くる者を助く


「天は自ら助くる者を助く」という言葉は、古くからある言葉だぜ。

それを、自らを助けないで、自分というものをつくればつくれるのに、少しもつくらずにいて、そして、やれ病がどうの、やれ運命がどうのっていってる人間は、早い話が物好きにそういうことをやってるとしか考えられないじゃないか。

たとえば、右見れば繚乱たる花園があり、左見ればゴミや糞がごろごろと転がっている。

転がっている方面ばかりが見えるというときに、右見てればいいじゃないか。

右見てれば、目にうるわしい花が己をたのしませてくれるのに、左ばかり向いていて、なんてこの世は醜いもんだと考えてる奴があったら、その人間をほめるかい?

自分がいやな運命の中に生きている場合でも、注意がもっと良い運命の方に振り向けられていれば、たとえどんな運命のなかにいたってそれを気にしなくなる。

幸福を本当に味わおうと思う秘訣はここにあることを考えなければだめだぜ。

本当の幸福が味わいたいんだろ?

**********

天は自ら助くる者を助く=God [Heaven] helps those who help themselves.


天は、他人に頼らずに自力で努力し、道を切り開こうとする者を助けてくれるという事


**********


どんなにつらくいやなことがあっても、他の美しい、楽しいことに心をもっていくようになれれば、つらいことも気にしなくなる。


幸福を味わう秘訣はここにある。



2010年9月4日土曜日

9/4

英語の勉強に調子が出てきました。

仕事後と仕事前に勉強する習慣がついてきたこのまま目標に向かって突っ走るぜ。

目標はTOEIC600点 

がんばるぞい。

2010年9月1日水曜日

9/1

現実の力で解決する

 多くを言うまでもなく、人生はどこまで行っても現実の世界なんだから、これを忘れちゃいけないんだよ。

死んでから後が人生じゃないんだから。

死んでから後のことまで考えようとするのは宗教なんだ。

天風哲学は死んだ後のことなんか考えやしないもん。

死んだ後というものは明日以後のことなんだもんね。

現在ただ今生きているこの人生というものを考えていくということが私の主義であり、主張であるんだから。

生きていることは現実なんだ。

どんな人間でも今現在、自分自身で死んでいるとは思いやしないだろ。

生きている、息している、血がかよっている、ものを言っている、糞しょんべんたれる、恋をする、何じゃかんじゃ、みんな現実なんだ。

現実はどこまで行っても、現実の力以外のものでは解決できないんだよ。

べつに私は宗教をけなすってわけじゃないんだけれども、ただ、見えない、わけのわからないものにお頼みして、おすがりして、それを現実だと思っている人は、観念のなかに、ある錯誤があるんです。

どこまで行っても、つねりゃ痛い、ひっかきゃ痒い、切りゃ赤い血が出る この生命を生かしている刹那、刹那は、宇宙真理という現実のもので解決していかなきゃいけないのであります。

******************

*刹那の意味

「今、この瞬間が楽しければ、それで良い、って考え方。
=刹那主義

ただし、刹那主義には、こういうネガティブな意味ではなく、
「取り敢えず、今できることに全力を尽くす」
って意味もあります。
//辞書によっては、こっちが第一義になってることもあります。

また、刹那的には、「瞬間的」って意味もあります。」

宇宙真理= 修練によって顕在意識と潜在意識の間で知識が流通するようになると、潜在意識の知識が利用できるようになります。潜在意識には、宇宙の真理に関する膨大な知識が保持されていますので、それを利用できるということは、宇宙の真理を悟ったと同じことになるのです。


********


神や宗教などの現実的でないものに頼っても解決はできない。

現実の刹那を生きなきゃいかん。